1600~1800年代フランス-イタリア・タロット事情

フランスでカードゲームは流行するも

1600年代中期、当時のパリ(現在6区のみで構成されている)にはすでに4,000ものゲームルームがあったと言われています。

そんな中で、この頃フランスでは、政府とカードメイカーの間で一種の対立が激化していました。当時、カードに対する税金は州の収入において、当時の「塩」に課せられた塩税よりもさらに高い割合が示されていました。

貧富の差なく誰もが、カードゲームのプレイヤーであり、すべてが賭けられていた時代であり、庶民の中にはこれを生業としてすがるしかない社会的弱者も多かったとのこと。もう何世紀にもわたって富める者から病める者にも、あらゆる種類の賭けごとが蔓延している時代でもありました。ここに課税する旨味を政府は見つけたわけです。

この時代ですから、絵札は壊れやすく、しょっちゅう廃棄されることになるものでした。

そして市場においてカードは重要な役割を果たすものとなっていきます―カードには高い税金がかけられつつも富裕層はこれを満喫。彼らにとってはステイタス=「高額納税者の証」でもありました。

一方カードメイカーたちは業者として、政治情勢とともに絶えず変化する複雑な税法に対処することに追われます。政権が交代するたびに、新たな制度が課され、特別な税や印紙が必要であったことも伝えられています。

カードメイカーは各町の特定の地域に半ば閉じ込められて、警察と税務署による監視下にもありました。

労働者は厳選され、許可証を所持する必要があったとのこと、つまりは許可制です。

政府にライセンスを申請せねばならず、印刷業者はどのスタイルのタロットを印刷するか明確に監視され、ある時点では、政府が提供する特別に透かし入りの紙にカードを印刷しなければならないなど、圧政に苦しめられたタロットメイカー業界であったのです。

  • 時代背景についても、タロット日曜美術館資料のP.8を上げておきましょう

圧政下にあったフランス

1700年代に入って、ドダル、フランソワ・エリ、ピエール・マドニエなど続々とマルセイユ・タロットのメイカーが台頭してきますが、後の1789年に勃発するフランス革命、国王と王妃が断頭台にて処されるという惨劇に向かいだしていたこの国での生活。こういった業者のみならず、誰にとっても生活そのものがたやすいものではなかったことでしょう。

印刷業者たちにはまずは「用紙」の入手から、監督者によってその数が管理され、厳密に数を確認されたものが作業場に運ばれてくるという状況でした。さらには「版木」の二次使用が禁止されます。検閲の結果、一度使った版木はすべて廃棄させられました。

フランスと地続きの周辺諸国へカードが密輸されることもあったとのこと。それを防ぐため政府はあらゆる策を講じ、カードの製造において何であれ「未申告」はご法度なのです。

警察が乗り物を使って武装し、決まった日にあらゆるカードメイカーの工房に侵入し、すべての検閲が完了されなければなりませんでした。

普通のゲームカードであれば、同じ版木を再度彫刻できる職人を見つけることは、そう難しくはありませんでしたが、タロット専門の版木の彫刻家を見つけることは容易な作業ではありませんでした。

そして、新しいタロットの生産を進めるためにはそこに何らかの改善が必要とされていったのです。

おそらく「経費削減」の結果、生じたのがヴィヴル版なのだろうというのが、Le Tarotエディションのメイカーの主張です。

  • ジャック・ヴィヴルのマルセイユ・タロットを振り返る

 

木版とステンシル彩色によってつくられるマルセイユ・タロット

  • 木版画の性質上、版木と作品では、描かれている人物の向きが左右対称になりますね。版木をスタンプのように使わず、版木をそのまま台紙に置いて、その型をなぞって線画を描き出し、そのまま彩色するというエキセントリックな手法が用いられました。これなら「一度使った版木を廃棄せよ」というルールに従う必要がなくなります。
  • タロット日曜美術館資料のP.9とP.35を上げておきましょう。

ヴィヴルのやり方では、結果としてタロットの質を落とすことにはなったでしょう。

しかし、より低コストで安価に末端消費者にタロットを伝えようとしたのが当時フランスの片田舎で職人として働くジャック・ヴィヴルのやり方だったのです。

「正しい絵柄」が求められていたというよりも、「ゲームができればそれでよい」というのがカードに対する農村部の人々の意識でもあり、また当の彼らにとって賭け事は生業であり、死活問題だったのです。

以降も、メイカーらが相当四苦八苦しながらこれらマルセイユ・タロットの絵柄やデザインを2世紀以上、1800年代まで親方と徒弟によって継承され続けていくわけですが、さすがにデザインにおいては一定のパターンが動かないマルセイユ・タロット。刺激や新鮮さにおいては人々を魅了するほどのものではなくなっていきます。

タロット・ゲームにおいては、1700年代後半には、伝統的なマルセイユ・タロットからプレイヤーたちが離れる傾向にあり、フランスでは「タロット・ヌーボー※」がひとつの区切りとなりました。ゲームカードであり、後のトランプのスートとして確定されていったもの。

タロット・ヌーボーとは?

4スートはハート、スペード、ダイヤ、クローバー、今で言うトランプのピップカード(数札)としてひとつゲーム用のセットが成り立っています。

  • ゲームカードとしてフランスで愛好されていきましたが、イタリア流のタロットとは一線を画してまいります。

 

そして、1789年にはかのフランス革命 ― 封建制度や絶対王政が終焉を迎えます。人権宣言の発布や、貴族制度の廃止など、国のシステムが根本からくつがえされていったのです。全世界に大きな影響を与え、民主主義や人権の概念が広まるきっかけとなったことは周知のこと。

 

「マルセイユ・タロットの絵柄は風刺的だ」としばしば語られています。そう、もともとはゲームカードであり、不敬であると「教皇」を入れるなというお達しがあった時期もあったもの。皇帝や女帝、裁判官などはほぼ「風刺画」だったのかもしれません。

生まれや身分によって決まる一生、政治も法も権力者のなすがままの世の中に立ち向かっていこうとした庶民たちの様々な意識をかいまみるものです。

いよいよタロットは完全に庶民のものと化します。

 

1800年代イタリアの華やかなタロットアート

マルセイユ・タロットのような伝統的なスタイルがないということが幸いにして、イタリアのカードメーカーには比較的にまだ自由度がありました。

スートの描き方には、タロット・ヌーボーと異なる象徴が描かれている点は注目に値します。

ここで「スート」を整理しておきましょう!

 

トランプのスートとタロットのスート

山川出版社「タロットの歴史」P.254にもぜひこの図をと依頼したので、てっきり入っているかと思い込んでおりました。図があったほうがさらにわかりやすい!

  • 御覧のように、実際に使われていた貨幣の絵柄のコインなど、今のタロットはイタリアの伝統的なスートに回帰したところのものです。

 

商工業が盛んになり、市民層が豊かさを増し、商人、工業の担い手が社会的地位を確立するとともに文化を主導していくようにもなっており、政治やメイカーの主義主張にとらわれずに、出版社たちが革新的な創作活動に挑戦できた場所がイタリアだと言えるでしょう。

書籍の文化とともに義務教育化が進み、タロットも進化し始めます。一般市民により愛好され、より購買意欲を掻き立てられるようなオリジナリティあふれる作品が次々に生み出されるに至るのでした。

この時期のフランスとイタリア、二国の関係性も重要です。

長くフランスの支配下にあったイタリアの北部においては、多くの文化同様、タロット・アートについても、フランスから流れ込んでくる伝統を踏襲しながらイタリア本土でもその流儀に従う、模倣するような文化の流れがありました。

がしかし、イタリア人はフランス流のゲーム・カードのスタイルに迎合するばかりではありませんでした。タロットの流れは世界各地に枝分かれしながら、また異なる伝統を後世に継承させていくことになったのです。それについてはイタリアのメイカーや彫刻家の功績によるものが大きいと言えるでしょう。

 

 

1830年デラロッカのタロットが一世を風靡

時は1830年代のミラノ。カードメイカー、フェルディナント・グッペンバーグもしくはグンペンベルク、ここではフェルディナント・G( Ferdinand Gumppenberg)と記載。1700年代から活躍が認められている今でいうこの出版業者は、当時はまだマルセイユ・タロットのデザインが主流であった中で、時代が推移する波を感じながら「新しいタロット」を作ることに思いをはせていました。

まずタロットの絵柄を依頼する画家については、ある程度名のある有名な芸術家に委託するという伝統に忠実に従い続けながらも、ミラノではある程度知られていたという程度の彫刻家、カルロ・デラ・ロッカ(Carlo della Rocca)に目を付けたのです。

腕利きのカルティエ=彫刻家であり、タロットの絵柄のデザイナーでもあった彼のオリジナル・タロットはイタリア全土にまたたくまに広がり、周辺諸国へも流出していきます。

少なくともイタリア-フランス国境周辺のタロット研究家たちの間では共通の認識があるようです―すなわち、1830年代において、タロットの世界に革命が起こったということ、それが、ドイツのカードメイカーフェルディナント・Gが、彫刻家のカルロ・デラロッカに制作を依頼した時に由来するものであるという。

 

 

イタリア名称「Tarocco di Della Rocca(デラ・ロッカのタロット)」

およそ1830-1835年にロッカ自分自身が絵をデザインした、数少ないオリジナル・タロットです。世に出たこの「デラ・ロッカ版」、今でも各出版社によって復刻されており、安価なものからやや高額なもの等追って本誌でも紹介してまいります。それだけ芸術的な影響力があったものでもあります。

版を重ねて、彩色版も出回るように

上)Tarocco di Della Rocca/デラ・ロッカのタロット復刻版

商品情報「ソプラフィノ・タロット」

・カードメイカー/出版社:Il Meneghello

・復刻版制作者:オスワルド・メネガッヅィ

・復刻制作年代:1985年

・カードサイズ:縦横 12.5×6.5cm

すべてのタロット画像はインターネット・タロット美術館で御覧いただけます。

 

 

 

現存するデラロッカの1835年カラー版


*オークションサイト・クリスティズhttps://www.christies.com/より

U.S.Gamesのスチュアート・カプラン他複数名が団体名義で出品しており、2023年10月時点では2500-3000ドルでした。


以上今回は、1600~1800年代のフランス・イタリアタロット事情、「タロット日曜美術館の資料」とナディアオフィス刊行「クラシック・タロット」より抜粋・編集してNahdiaがお届けいたしました☆彡

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