1491年1月、スフォルツァ城にて問題となった「星回り」

現存する最古のタロットとして知られるヴィスコンティ・タロット。

いくつかのヴァージョンがありますが、中でも最古であるかともささやかれるキャリー・イェール・パックは、旧約聖書の「最後の審判」を思い起こさせる図像です。

下図)ILMeneghello製復刻CYヴィスコンティ「審判」

原版は米イエール大学図書館デジタル書庫にて確認できるようにリンクしております。Yale Library – タロットマスターズワールドのインターネットタロット美術館 (tarot-society-jp.net)

白装束の天使が2人、巻物を手にして描かれています。その羽は3色に彩られています。

ひとつの大きな棺のなかから、老人と男女2人が天空の神を見上げている光景が描かれています。

キリスト教画の場合、復活した人は、通常昇天したイエスの年代、30才前後で描かれます。

ここでやや年老いた印象の人物が描かれているのは、第3代ミラノ公爵フィリッポ・マリア・ヴィスコンティであるとも、その後継者・娘婿の第2代公爵フランチェスコ・スフォルツァであるとも指摘されています。

描かれている人々の表情は穏やかで、うやうやしく天界に目を向けています。

 

ミラノ&エステ公爵とその一族

さて、第4代スフォルツァ公爵以降、即位したミラノの公爵は次々病死、暗殺・・・短命の内に爵位を明け渡しながら1470年、スフォルツァの四男ルドヴィゴ・スフォルツァ第7代ミラノ公爵に即位します。

Ludovico Maria Sforza,

1452年7月27日 – 1508年5月27日

かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとしても知られている存在。ロドヴィゴ・イルモーロ=「浅黒い人」とも呼ばれた存在。

長く寵愛した女性を描かせた「白テンを抱く貴婦人」なる絵画をご存知の方も多いことでしょう。

チェチリア・ガルレラーニの肖像

※白テンの胴体が胃袋のようだと指摘されているのを見たことがありますが、この絵が補修された際に「描き足された」とのこと。頭部のヘアネットなども然りで、もともとの絵、その細部がどのように描かれていたのかはもはや定かではないのです。

 

その一方で、ルドヴィゴの正妻、ベアトリーチェが、彼の元へ嫁ぎ、正式にミラノ公妃となったのが彼女が15歳の時です。その際、ルドヴィゴが44歳という29歳もの年齢差が物語るように、これは完全な政略結婚でした。ベアトリーチェは、ミラノ公国と同盟関係を結んだフェラーラ公爵エルコレ一世の次女。

Beatrice d’Esteste

(1475年6月29日 –1497年1月3日)

ベアトリーチェ・デ・エステです。

ベアトリーチェ・デステ ではありません。

エステ家の公女ですし、エステ家のエステンシ・タロットにつなげるときに苦しくなりますから、表記、しっかりしていきましょう!!!

同盟関係の証に、当時まだおさなかった娘のベアトリーチェが15歳になったらルドヴィゴの妃として迎えられるようにとミラノ&フェラーラ間では、もう10年も前から手はずが整えられていたのです。

若く美しく聡明なベアトリーチェは、たちまちミラノの宮廷の華と化し、城内を行き来する王侯貴族はもちろん、哲学者、詩人、外交官、兵士たちをも魅了したことが伝えられています。彼女の姉、イザベラ・デ・エステも「ルネッサンスのプリマドンナ」と言われた、激動の時代を生きた女性としてよく話題に上ります。

 

ルドヴィゴお抱えの占星術師

ルドヴィゴお抱えの占星術師アンブロージョが、2人の婚礼の日取りを導き出し結婚式は1491年1月。ただし18日を超えないこと」と告げます。

ルドヴィゴがこの「星回り」を理由に、挙式の日を1/17日と決定。ベアトリーチェ一行は前年の12/29にフェラーラを出発。ポー川を越え、雨や雪をしのぎながら真冬の過酷な旅を経て、ミラノに入ります。それがもう1月16日、挙式の前日というのが必死ですね。

 

※上)イタリア、パヴィア

ミラノ、ブレラ美術館所蔵 作者不明(宮廷画家ジョヴァンニ・デ・プレディスかレオナルドの弟子である可能性も指摘される)

ヴィスコンティ城内公の礼拝堂にて

ルドヴィゴとベアトリーチェ2人の兄弟や姪なども一堂に会しての合同結婚式が執り行われるに至った様子とのこと。

 

先に記した愛人他、その他大勢の女性たちに取り巻かれていたルドヴィゴではありますが、どうも政治的な側面からやはり確かな教育を受けて語学も堪能というベアトリーチェの存在はは不可欠であった模様。

そして1497年、ベアトリーチェ22歳の時に男子を授かるも、それと引き換えであるかのように彼女は他界。

この時代の女性は、病気よりも出産の際に命を落とすことが多かったのです。ベアトリーチェは、ルドヴィゴの命でスフォルツァ家の霊廟(れいびょう)と化した聖マリア感謝教会に葬られました。

あ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会と伝えたほうがよろしかったでしょうか、そう、この教会の一室の壁画に、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》が、やはりルドヴィゴの命で描かれています。ベアトリーチェに対する追悼の意が込められたものである可能性が高いとされています。

上)レオナルド・ダ・ヴィンチ作(1495年 – 1498年)

ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

壁画、テンペラ

 

この絵は、戸口の上に設置する予定だったために、中央下部に扉のようなものも描かれていますね。

※筆者は実際に可能な範囲で至近で拝見。このぐらいに見上げる程度の距離感にはなり、残念ながら間近では見られません。が、観終わってから背を向け、少し離れてまたふり返って観たときに!

この絵が動画のように動いてみえたのです。指さす人、話し合う人、顔を傾ける人、、目の錯覚なのでしょうが、一種神秘体験のようで思い出深いシーンとなっております。

 

ベアトリーチェを失い、ルドヴィゴの運勢も傾きだしたのか―2年後の1499年にはヴェネチア共和国と手を結んだフランス王ルイ11世にスフォルツァ城を明け渡すにいたります。1450年、父親の代からヴィスコンティ家に取って代わったスフォルツァ家のミラノ統治は終焉を迎えます。

フランスの城に幽閉されたルドヴィゴは、一度逃亡を企てますが再び捕囚され、1508年56歳で人生の幕を閉じました。遺体は、祖父の初代ミラノ公ジャンガレアゾ・ヴィスコンティが築いたパヴィア修道院に埋葬され、のちにベアトリーチェの遺体もここに移され、いまでも2人の棺が並べられています。

下)ルドヴィゴとベアトリーチェの棺(ミラノ・パヴィア修道院)

当時の王侯貴族の棺のふたの部分には、彫像がほどこされているものが多々見られる。。こちらも山川出版社「タロットの歴史」P.225に掲載させていただいております。

以上、ほぼほぼにそのページの原稿&関連情報でした。ところで、ウェイト・タロットの小アルカナ「剣の4」に描かれている図像も、やはり人ではなく墓なのかもしれませんね。しかしパメラさんの画才!ってところですよ。

 

よみがえりを祈った公爵家の人々

スタンダードなタロットの「審判」は、神の許し、報われること、成就するカードであり、大天使がラッパを吹き鳴らしている下で、棺桶から人が蘇る光景が典型。

パリ国立図書館所蔵のエステ家のエステンシ・タロット、16枚の中の「審判」

 

マルセイユ・タロット、以降の改良されたウェイト・タロットでも、構図は踏襲されています。

棺から何人もの人が立ち上がって大天使の祝福を受けている光景、天使が吹くラッパ、よみがえりのシーンです。

絵柄の棺は肉体=物質の象徴。

死者に対する裁決が下される審判です。神の許し、報われること、よみがえり、新たな生命を得ること、スピリチュアリティの象徴です。

オシリスも、キリストも、死後復活し、永遠の存在となるのです。

私たちひとりひとりも、肉体は滅びてなお、その魂は不滅の命を獲得することができるはずであろうと―宗教、あるいは神秘思想的な教義に等しい、美しい宇宙観を物語る22枚の大アルカナなのです。

より日常的に解釈するなら、棺という殻を脱して、サナギが蝶へと変成する私たち自身のメタモルフォーゼの象徴を物語る札でもあるでしょう。

人は何度でも生まれ変わって、新たな人生を歩みだすことができる存在なのです。

思い起こせば、エジプトのピラミッドも、国王ファラオが死後、天界に飛びたつための特別な埋葬所、すなわち墓として建造されたものです。

ミラノ公たちも自らの死後に思いをはせ、朝に夕に神に祈りをささげたことでしょう。

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