マルセイユ・タロットが伝える「あなたとは誰なのか」

 

フランスの親方たちの伝統

タロットのみならず、占いをする時点で、大なり小なり人生という大きな航海の中でかじを取りあぐねているようなイメージがあるでしょうか。

占いの使用においては、マルセイユ・タロットがもつメッセージに「答えはあなたの魂にゆだねよ」というものがあります。

ドダルの親方のタロットの解説書では、肉体というデバイスが機能不全におちいっているその時に、デバイスを借りて存在している魂について、より一層意識を及ばせてみようという提案がなされています。

もう一度、その状況に至ってしまったことを振り返り、「あなたが誰で、どこへ行こうとしている人なのか」、あなた自身を取り戻すための道具がこのタロットなんだと。

マルセイユ・タロットが盛んに生産されていたフランスでは、中世期には二千万人を越えていた人口が、黒死病ペストの影響により半数近くにまで激減したとのこと。近世に入っても17世紀はなかなか回復せず伸び悩んだ時代でした。そして総人口の90%を占めるのが農民でした。領主からの圧力に耐えつつ、1789年の革命へと反逆のエネルギーはすでにほとばしりを見せていたのではないでしょうか。

以下、今回は当時近世フランスの時代背景とともにお伝えしてまいります。

 

5人中4人が農民という近世フランス

近世フランス社会では、都市部に住まうのは全人口の約10%ほど。最大の都市と言われたパリに集中していたのです。

現存する最古のマルセイユ・タロットの親方として知られるジャン・ノブレはパリに工房を構え、富裕層を顧客に仕事をしていた存在です。

まるで今の日本のように、こういった都市部は独身者が多く出生率は低く、農村部から人口ともども労働力を流入させては搾取を行っていたようなものだったとも語られています。

病気や医療不足で、当時のフランスは子どもの死亡率が急騰しており、人口減少を懸念しながらなんとか子どもの存命率を高めようとする意識が強まっていました。

女性であれば結婚し子どもを産むことが望まれ、妊娠出産にまつわるおまじないや儀式が流行した時代でもありました。ただ妊娠するだけではなく、無事に出産し、なおかつ健康的な男児を育ててこそ、女性が女性として認められるような社会だったのです。しかしやがて女児も婚姻関係によって実家と嫁ぎ先の双方にメリットをもたらすことで次第に歓迎されるようになるのは日本の文化と同様です。

分娩はひとりの女性のことではなく、近隣の女性たちが助産婦として関わり、老若男女が見物できる一大イベントと化していたというので驚きです。

立ち合いに集まった多くの人たちの目前で女性は出産せねばならず、それが宮廷でも然りだったのです。かのマリー・アントワネットでさえも分娩室の扉は開かれたままで、彼女が子供を生み出す瞬間を見ようと屋敷内では家具によじのぼる貴族さえいたという記述が史書に残されています。分娩のスタイルが椅子に座ってなされるものだったため、ドレスのスカートが大いに役立ったことでしょう。

1700年代初頭の新生児の生存率は決して高くはなく、4人に1人が1歳未満で死亡していたという記録があります。

上流階級の女性たちが乳児のために乳母を雇うのは慣習でしたが、農村部や労働階級の女性たちも産後すぐに働かなくてはならないことから、乳母を探すか、自分で育てられない子どもを里親に出すということもひんぱんで、やがては捨て子も急増。パリには里親あっせん所の他に、いわゆる赤ちゃんポスト、捨て子専用の施設がまたたくまに増設されていきました。

質の悪い乳母のもとに里子に出されれば、そこで命を落とすことになり、運よく(?)生存できたとしても、病人や浮浪者とともに収容施設に送られ、劣悪な環境下で病死、または動物におそわれることなどもあり、運がよいのかわるいのやらです。

生き残ったごく一部の子どもたちは14歳になると商家の職人見習いや使用人として引き取られていったとのこと。中には豊かな家庭の養子になり学者にまでのぼりつめた存在もいますが特例で、結局は「捨て子」=「子殺し」だろうという一般認識にあって、社会では厳重に捨て子は禁じられていました。

こと女子については使用人として採用されるも、雇われた主人の家で妊娠させられ、冷たく解雇されるなんて話がフランス社会ではごまんとあったとのこと・・・悲惨の極みです。

日本の「奉公人」

日本にも「奉公/ほうこう」ということばがあり、wikipediaによれば「奉公(ほうこう)とは、国家や朝廷のために一身をささげて尽くすこと。転じて、特定の主君・主人のために尽くすことも指す。」

今NHKの大河ドラマ「べらぼう」でも、捨て子だった主人公が、遊郭を営む一家に引き取られて、養子とまではいかないけれども実子の兄もいるし、立ち位置はほぼ奉公人とう一人の青年が主人公です。

少々古いですが1983年朝の連続テレビ小説、いわゆる朝ドラ「おしん」では貧しい家庭からほぼ人身売買扱いで、他家に使用人として差し出された主人公の生涯が描かれたりと、よくよく時代劇には「奉公人」が登場していますが、似たような歴史の背景がありそうです。

こんな時代に生まれていたらとぞっとしてしまいます。

 

「ガチャ」を乗り越えて!

家庭の事情で里子に出されたり、捨てられたり、どこにどう働きに出されるかで、一生が決まってしまう―いえ、実際は、それはもう里子ではなくとも実子であろうが、残酷な虐待を受けて育ったという人の話は枚挙にいとまがありませんね。精神的にも肉体的にも、悲惨な児童虐待の実話が古今東西に散見されています。

いわゆる「ガチャ」ですね、家ガチャ、親ガチャ―永遠のテーマであることに、向き合ってまいりましょう。

先に取り上げました「魂の札=「愚者」=肉体に入る前の魂の札を何度でも再考してまいりましょう。

どんな肉体に入って生まれ出るかは、誰もがコントロールしうるところではなく、ここが第一関門というわけです。

そして生まれ出た環境から、今日に至る連続性の中で、今の環境をまずは生かすことなのでしょう。今ここで何ができるか、答えはその一点に尽きるのでしょう。

NHKのまた別のドラマ「あきない世傳 金と銀」で使用人だった女性=いわゆる女中のひとりが、商家の息子の嫁に抜擢されるというシナリオのドラマを地上波でやっていたんですね、(どうしちゃったんでしょう、今NHKで奉公者オンパレードも何かの波なのかもしれませんが)「女中は一生鍋の底をみがいて終わるんだ」という女中さんのひとりのことばがどこかチクリと胸に刺さりました。そしてでもその女中さんが決して後ろ向きではなかったことに、光を見ました。

どこにどう奉公するか、まさに運が左右するところです。しかしそうやって運を意識していると、案外と守られ、想像もしないところに流されていったりするものなんですよね、多くの人が肌で感じていることでしょう。運とかツキってあるものです。

 

奉公人には奉公人の輝かしいチャンスが、人には人の、かけがえのないその人それぞれの幸せがある。

女王だろうが女中だろうが、「幸せ!」そう実感できる生き方が大切だって、マルセイユ・タロットを通じて人生に向き合うと、常にそんな人生哲学がわきあがるのです。生まれやカネじゃないという。

 

自分自身という存在の奇跡を大切にしましょう。今ここにこうしていられることがもう奇跡なのです。

同時に、自分自身を大切にしている人は、他人のことも同じように大切にできます―ここは言葉でいうほどたやすいことではない、難しい段階かもしれません。

ですが原理としては、自分を大切にできなければ、他人も大切にできません。自分だけ大切にするのは、問題かもしれませんが、でも、大切にできないよりはましです。人生で行き詰ったとき、つまづいたときにこそ、まずは、自分自身に集中しよう。

 

卜術よりも命術という考え方

そういうときは卜術よりも命術かもしれません。

あなたの魂が、あなたの肉体を得て、そしてひとりの人間として生誕した、その記念すべき生年月日を用いる命術があります。

「あなた」を象徴するあなたの誕生日=生年月日という数値は占術で最重要視するものと言っても過言ではありません。

いずれにしても、もっともっと、占術にたずさわる人間は、「生まれる」ということ自体に敏感でありたいものです。

二度とないその日に生まれた、唯一無二のあなた自身を、他の人たちのことも、本当の意味で大事にしていただきたいと。

 

 

 

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